小学三年の時のこと。

当時、自動販売機もない小さな田舎町に住んでいた。

そんな田舎町に突然、大きなスーパーマーケットができた。

といっても、今ではどこにでもあるようなスーパーマーケットだけれど、

中に喫茶店があって、大人たちは喜んだ。

もちろん子供たちも喜んだ。

おもちゃがあったのだ。

田舎町だったから、おもちゃ屋に行ったことのある子供なんて少なかった。

私も毎日のようにおもちゃを眺めるために出かけた。

 

ある日、ショーウィンドーの中のおもちゃを眺めていると、

私くらいの男の子を連れた女性が入ってきた。

男の子は私と同じショーウィンドーにひっつき、

おもちゃを見始めた。

少年に知的障害があるのはすぐにわかった。

一年生と二年生の時に、同じクラスに知的障害を持つ同級生がいた。

ほかのクラスの生徒が彼をいじめると、

私たちはクラス全員で仕返しに行ったものだ。

私たちはとても仲が良かった。

 

おもちゃを眺める少年の母親に、

店員は愛想良く、商品の説明を始めた。

私はその少年を見つめた。

私は彼が眺めるおもちゃの楽しさを知っていた。

私は持っていなかったが、友達が持っていて、

遊ばせてもらったことがあるのだ。

私はそのおもちゃの楽しさを伝えたかった。

「見ちゃいけません」

と急におもちゃ屋の店員が言った。

そして私をにらんだ。

私に男の子を見てはいけないと言ったらしい。

男の子の母親は黙っていたが、

その目に悲しみが宿っていたことを見逃さなかった。

子供はそういうことに敏感なのだ。

私はそんなくだらないことを言う店員なんてどうでも良かった。

男の子の母親の反応が気になってならなかった。

  

私は今でも思う。

店員は善意のつもりなのだろうが、明らかに「差別意識」をも持っていた。

子供が子供を見つめるのだ。

ひとりが障害を抱えていたってかまわない。

仲の良い友達になれるかもれないし、

なれないとしても、子供はそこから多くのことを学んでいく。

その店員は私に向かって、

「おもちゃのことを教えてあげて」

と言うこともできたはずだし、

店員としての立場があるなら、何も言うべきではなかった。

 

男の子の母親は、我が子の障害については誰よりも理解している。

だからこそ、健康な子供と同じように接してほしいものだ。

店員の言葉で、母親は悲しまなければならなかったと思う。

 

誰だってハンデを抱えている。

それが目に見える身体的ハンデか目に見えない心のハンデかの違いに過ぎない。

人は生まれながらに貧富の差や身体的な差がある。

家庭環境の違いも、あらゆる能力の違いもある。

けれども、特に何も知らない子供は、平等に差別なく、

育てられなければならない。

私も言葉や行動に気をつけながら人と接したい。

人はいくつになっても過ちを繰り返すものだから。